午後から雨になるでしょう

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本ね......

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父が亡くなった後、古本屋さんに来てもらった。

父は本にたくさん書き込みをするので、ちっとも売れなかったが、古本屋さんには、勉強家だったのですね、本にとっても良いことです、などととても誉めてくれた。(うれしかったんだけどね)

本にとって良いことでも、人間(特に遺族)にはあまり良いとは言えない。

 

そりゃあ子供の頃から、わたしはやっぱり、本があるところが落ち着く。父の部屋も、学校の図書室も、図書館も、わたしの「居場所」だった。

それに、本をたくさん持ってる大人たちにも囲まれていたと思う。

たまに家に来る大人たちは、父と同じか、それ以上に本をたくさん持っていて「本は真夜中、人間たちが眠ってる間につがって(つがって!)子供を生むから、知らない間に増えるのだ」なんて言ったりしてた。(誰が言ってたんだろ。ちょっとわたしが創作してるか。つがってとか)

アホだ......とわたしは内心思っていた。

 

反動ってあるよなーと思う。

前にここに書いた「わたしのウチには、なんにもない」の著者も、子供の頃からモノが溢れる家に住んでいたというし。だから捨てまくりに、ね。わかるー。

 

わたしのウチには、本は「それほど」ない。

読んだら捨てるか売るかひとにあげるか、なるべく溜めないようにしてきた。前に図書館が目の前にあるとこに住んでて、そのときは図書館の本ばっか読んでた(あれは便利だったなあ)。

持ってる本だって特に大事というわけでもなく、なんとなくの選択で持ってたり、持ってなかったり。

いまもごく適当に段ボールに詰めて買い取りに送ってるところ。たいした量じゃないよ、段ボールの一つや二つ。我ながら無頓着だなーと思う。

 

けど、このやり方で問題なのは、自分が読んだ本を忘れちゃうところだ。

結局、本って持ってるから記憶するんじゃないかと思うんだよね。

(持ってても忘れます、という方。はい、それもわかります。持ってた本を買っちゃったりするよね。ところが持ってないわたしもそれをやる。そうなると持ってる方がやっぱ良くないか?)

なんていうか、自分の読書体験が自分の中で歴史になってない。忘れきってる。

読書体験ってさ、自分を作ってるもののかなり大きな部分じゃないの? と思うんだけども、それがわからないんだから、なんていうか、自分の素材がわかんないっていうか、なんかアヤシイ偽物臭いんだよね、自分が。薄くてぺらぺらな感じがするのだ。むうー。

 

ところでわたしの偉人、ユタくんは先日ブログについに「究極、トイレットペーパーと金魚さえあれば、生きていける」宣言をしていた。偉人だ!!! カッコイイ!!!

究極......わたしも、文庫本1冊(これらから読める本)と、煙草と数千円の飲み代があれば生きていける、とか言おうかな。カッコイイ!!!

 

 


吉永亜矢 (2015年5月31日 12:37)  カテゴリ:
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