テレビでローマのおっかさんが、本場では生クリームなんかいれないよ、ほいほい、(ほいほいとは言ってないが)とつくっていたカルボナーラがおいしそうでたまらなく、真似してやってみる。
生卵に熱々の麺をからめるっていうのは、かまたまうどんと同じだね!
オリーブオイルでベーコンを炒め、茹でたパスタをあえてから、あったかいうちにすばやく卵とチーズのソースに絡める。もちろん最後に、黒胡椒。胡椒がないとカルボナーラにならないからね。
これだけ。とはいえ、きのこも入れてみた。(なにかしたくなる)
カルボナーラ好きなのだが、食べてる途中で飽きてくる、でもこれだとまったく飽きない。牛乳や豆乳であっさりさせるやり方もあるけど、こっちのほうがだんぜんおいしい気がする。カロリーの気になる方、おすすめ。
西川美和監督の映画を「ゆれる」から観ていないわたし。小説も巧いらしい、雑誌などで見かける監督の写真は女優のように美しく、天はいったい、このひとに何物与えたのかー? 天よ天? と聞いたり、んあ? 天よぉ、とドスきかせたりもしたくなる。
あたらしい小説「その日東京駅五時二十五分発」(新潮社)を読んだ。短い小説だが、どこか映画のような作品。
巻末にこの小説を書くにいたるまでの長めの文章があり、この小説を説明するほかの文章は要らないというか書けない。さあ映画も観なくちゃ。な、天!
小説もうひとつ。「火山のふもとで」(松家仁之・新潮社)が出たと知ってすぐ買ってしまった。
文芸誌「新潮」7月号に掲載されていたのを読んだのだが、これは本の形で、頁をめくりもう一度読みたいと思って。きっときれいな装丁の本になると期待したとおりでもあった。
この小説はほんとうにすごい。あ、またすごいって言っちゃったけど。
本を読むのにどきどきわくわくするものもいいけれど、静かにしずかに語られる声にじっと耳を傾けていたいという気持ちが、最近ますます強くなり。
それには最高の読書だった。
ある設計事務所の、夏はそこに移り仕事をする山荘「夏の家」(浅間山のふもと)が主な舞台であるが、人物の内面よりも、設計や建物についてのディティールが続く。
それが、建築について知識もなくたいして興味もないわたしが読んでも、心地いいのだ。うつくしく、鍛え抜かれた文章。
小説というのはなんだろうなあ。人物に共感できるかできないか、なんて関係ないのだよな。といって、人物になにも感じないというわけではない。
わたしの感じ方だと、影ぼうしのように、気配が濃いのだ。
それにしても、わたしの行ったことも見たこともないような大邸宅の暮らしとか、塵ひとつもない家の中とか、整然とした毎日の仕事とかを、とっちらかったわたしの家のなかで乱暴に暮らしながら読む、っておかしなことだ。おかし過ぎる、とは思うのだが、読むとすぐ世界に引きこまれていくんだよなあ。
そうしておもいがけないほどの、喪失感にみまわれることになる。
この世には大きな声ばかりが響いていて、静かな声は届かない、と感じる方はぜひ読んで。