その新聞記事によると、空間の最小単位は10のマイナス33乗センチ程度と予想されるという。
どんな大きさかというと、細胞(の特徴的な大きさ)が10のマイナス3乗センチ。
細胞より小さいわけねふーん、と思ってるとこれが。
こんなおもしろいたとえも載っていて。
10のマイナス3乗センチの細胞を「観測できる宇宙の範囲」の大きさとしたら(細胞を宇宙にたとえるのか!)、空間の最小単位10のマイナス33乗センチが「野球ボール」だって!
宇宙と野球ボール! くらっとする。そのぐらいかけ離れているのだ。
さて時間の最小単位は、10のマイナス44乗秒程度と考えられるらしい。・・・うん?
んじゃ「時間の階段」ってどれほど滑らかな階段なのかー!
けど・・・時間を坂道か階段かにたとえるのがへんな感じがする、とわたしが思ったのは、時間はエネルギーのように増減するものではない、という意識があるからだろう。
時間をただたとえるなら、まっすぐな一本道、だ。だけどそもそも、わたしはこの大前提からわからない気分になってしまう。この世で時だけが、変わらずに一方向に進んでいく、生きているものすべてに平等に。というのが常々、疑問。「絶対にぃー?」と思っちゃう。
絶対、ってことはないんじゃないかなー、たまには、いや実はちょいちょい、止まったりねじれたりどうかすることもあるよ、そりゃね、というんならわかる。
絶対に止まらず絶対に逆戻りせず、まっすぐ一方向なのか、ずーっと?!
なーんかアヤシイー。
と、それは人間みんなそう思うわけで、だからたくさんの時間にまつわるSFが生まれている。SFを待たずしても、昔からのお話にも、竜宮城ではたぶん別の時間が流れていた、というようなものもある。
道は一本でなく、あっちの道はもっとゆっくり、などというのがある、と考えるほうが考えやすいのではないか。
なのにそれはあくまで空想の世界のこととなっている。
現実には、これからグレイグ・ホーガン博士により最小単位が発見されたとしても、その「非常に滑らかな階段」を時間は上ったり下りたりはできず、どっちか一方向へ「絶対に」止まらず進み続ける。
ずいぶん頑固である。
わたしなんか、時間って、たとえばループ状になってるっていうほうが考えやすいんだけどな。
「考えやすい」って・・・それ考えてないでしょ、どうなってるわけよそれ?
んー・・・だめ? んじゃもっと考えてみっか。
ってどんだけ時間を無駄遣いするのだろうかわたし。