いまはどんなニュースにも怒る気にはなれなかったわたしだけど、水道水の件には心底、腹がたった。赤ちゃんのいるお母さんたちはたたでさえ不安な状況であったのに、あれはあんまり酷い伝え方だったと思う。
緊急事態に混乱もするだろう、それに結局、原子力の問題は未知過ぎるのだろう。素人だけでなく専門家も含め、人類がみな素人なのだろう、と思わずにいられない。
あれから日にちが経つが、原発関係の報道にはそのすべてに首を捻ってしまう。それでもわたしはしつこく、読み見聞きしていくつもりだ。
毎日、料理をするひとたちの手が、時々、ふっと止まってしまうことがあるのじゃないかな、となんとなく思い続けていた。
食べられないひともいるのに、ふつうに食べられているわたしたちは。
でも家族のために、きょうもごはんをつくる。自分も食べないわけにはいかない。健康のことだって考える、いままでどおり、なるべくバランス良く、と考える。
そうしていつもどおり、献立を考えながら買い物に行き、スーパーでやっぱり、ふっと何度も止まってしまうんじゃないだろうか。明かりを減らした暗い棚の前でみんなが。
暗くてもそこにはたくさんの食品が並んでいる。ないものはしばらくなくても困らない、ここにいるわたしたちは。でもないことが、どういうことでどうなっていくかを思わずにはいられない。
辛い思いをしているひとたちがいると、いまはみんなががんばっているのだと思う。だから止まってしまった頭と心をえいや、と動かす。止まってしまった手と足を動かす。
ほんの数秒のこと、でもその重たい繰り返しを、気づかずにもしてきたのじゃないだろうか。
そういう思いたちが、流されてしまったような気がした。
放射性物質のせいで出荷されなくなった野菜、魚。
こんど止まってしまった手は、もうただ振り切らずに考え続ける。これでいいのか、と。