とてもかなしいことがあった。
ともだちが、逝ってしまいました。
彼女のことを、ここに、少しだけ書くことをどうか許してください。
わたしは彼女のことをそんなに知っているわけではないのです。
ただこの数ヶ月のあいだ、彼女をおもわない日はなかった。
そう書くとまるで、自分がとてもやさしい人間みたいだけれど、そうではない。その日々のなかでわたしは自分の弱さや、自分の嫌なところにずいぶん、向き合わざるを得なかった。どうにかわたしはもっと、強くなりたいとおもった。もっと強くなって、彼女のことを見守れますようにと。
高校の同窓生で、同じく受験して、たまたま同じ大学に行ったけど、学部が違ったから、あんまり会うことはなかった。いちどくらいは、一緒に飲んだことがあったとおもう。彼女はわたしとはおおいに違って、女の子らしく、可愛いひとだった。
二十数年も会わずにいて、再会したら、そんな彼女とわたしにちょっとだけ、共通点ができていたりして、年月が経つのはおもしろいなあ、とおもったりした。
とんでもない不精者のわたしは、彼女に限らず、いつの同窓生とも連絡を途絶えさせてしまっていたが、この数年、そんなろくでなしを思い出してくれるひとがいて、おかげで、いろんな「再会」ができている。
彼女も別のともだちが連れて来てくれて、昨秋のゴゴアメ公演を観てくれた。
そのあとお茶を飲んだり、みんなでランチにも行った。
彼女が癌であることは聞いていた。でもとてもそうは見えないくらい、彼女は元気で、若い頃よりもっときれいになったように見えた。
元気だった頃は、このブログも覗いてくれて、「桜海老パスタ」を真似して作ったと言っていた。
「我が家ではちょっとした、桜海老ブーム」と笑って。
ことしに入ってからのことは、せつなくてここに書けない。
いまはただ、彼女に感謝するばかりだ。彼女と彼女の家族にも、彼女のともだちたちにも。
彼女は病気のことを誰にでも、ちゃんと話したいと言っていて、ほんとうに、ちゃんと、話してくれた。
どれだけ辛いだろうとおもうのに、明るく笑っていた。
それだけじゃない、いつも正直だった。
輝きながら生きていた。
あんなふうにできるひとがいるということに、打たれる。いまでも。
わたしたちはみんな、歳をとった。再会の前よりももしかするとこんどは、もっと早くに、また、会えるのだ、とはわかっている。
それでもかなしく、さみしい。
彼女、みぃと呼んでいたからそう書く。
みぃがいなくなってしまったというのに、5月の空はきれいで光っていて。
泣きはらしたしわしわの目を細めたまま、立ちすくんでしまう。
でもきっとこんなにきれいなのは、みぃがそこにいるからなのかともおもう。