録画ビデオで、映画「グーグーだって猫である」を観たら、「高齢者擬似体験」(こんなのだった)をするシーンがあって、ああこういうのがあるのだなあ、と感心した。
よく見えずよく聞こえない状態で、腰をかがめ、街を歩くのだ。
病人と一緒に街を歩くと、病院以外のシャバというのはいかに凶暴な世界かということがわかる。
もう何年も前になってしまったが、父と病院に通っていた頃わたしのほうがすっかり、駅や電車や道が怖くなって仕方がなかった。
忘れているけど、たまには思い出したほうがいい。
でも考えたらさ。
わたしいま既に、別に疑似体験しなくても、目も腰も耳も悪いんですけど。
わたしはばかだから、コンタクトしたくなくて、眼鏡かけて歩くのもイヤで、スーパーで身体をくの字にして目を近づけて肉や野菜を見てる。それでよく、ぎょっとされている。スミマセンデス。
こないだ、スーパーでひとりおじいちゃんがモウレツに目を近づけて、ひとつずつお弁当を手にとって見ていて、キモチはわかるなあと思い、わたしのほうがまだ見えるのだから、かわりに見てあげたかった。
けどなにを見たくて見ているか、本人にしかわからないだろうからね。
ひとのお手伝いするのっていうのはなかなか、むずかしいことだ。
でもおじいちゃんが気になり、振りかえったら、こんどは店員さんになにか大声で尋ねていて、さっきまでいたすぐそこのお弁当売り場には傘が落ちていたから、これだな、と拾って持っていった。
あんなにわかりやすく落としていても、見えないのだなあ、と思った。
それか、ただちょっと誰かとお喋りしたかったのかな、とも思ったりした。
傘を渡すとおじいちゃんは喜んでくださり、わたしは恥ずかしくてそそくさと去ったけど、なぜかなんだか後から泣きたくなった。
おいおい、なんか最近、泣きたがりすぎじゃないかわたし?