写真は「Fool On The Roof」(作/宮下隼一)から。
毎日、ブログに長文を書いていて大丈夫なのか? と心配してくれる方が、もしもいたらば、
ありがとう。公演終了後約2週間ブログをお休みしている間に、ぼちぼちメモしていたものを
まとめながら、アップしています。
眠っても眠っても眠いなか、主に仕事、あとはチマチマ公演の残務処理をしたりの日々で、正直、まだ疲れが抜けてません。
誰かに頼まれたわけではなく、自分で書きたくて書きはじめたこの雑記ですが、これがなかなかの地獄でした。
やっぱりこういうことは、飲み屋で誰か心おきない相手に話すのならたのしいけどねえ。
書いているとだんだん、「どっちの料理ショー」で「負けたシェフ」が自分の料理を食べている感じ
になってくるんだもん。「いやいや...おいしいんだけどなあこれ、ほんとオイシイ」って言いながら。
ってたとえがわかりにくいよ! と言われるかと思うけど、本気でこれが自分の気持ちにピッタリ
なんだよ。こうとしか言えない。
「どっちの料理ショーの負けたシェフ」です。
けど、おつきあいして読んでいただいた方々、ありがとうございました。
わたしたちの小さな公演に、厚くご関心をいただいたことに感謝を。
最後に公演の主旨というのとは関係なく、わたしがおもしろいなと感じたことを。
今回は、わたしにとって、ほかに三人もの作家と書くという初の試みでしたが、
四短編の舞台設定「屋上」以外にも、もっと内容またはテーマで共通点を作ったほうが、おもしろかったのでは、というご意見もあったようです。
出来上がった作品には、共通点が「屋上」以外にもないわけではないのだけど、わたしは本の上で、明らかに同じ素材やテーマを扱うのはつまらないなと思っていました。
そういうものはたぶん、ほかにもあるかと思うし、きれいに繋がり過ぎるよりも、ちょっとデコボコした手触り感があるものを作りたいと考えたのです。
と、まあこういう具合に「負けたシェフ」にまたなってきましたので、おいといて。
そんなわけで、本は縛りをあまり強くせずに書いてもらいました。
けれど上がってきた本には偶然、シンクロがあり、それには驚きました。
「かぶり」は気にしましたが、でも、こういう偶然は活かす方向でいきたいし、かぶりにはならないとも思えたので、実際それらについての直しはしなかった。
大きなところでは、藤岡豊の「オドル」は、小学生の優芽が演じるのが実は三十代の、夫を亡くした大人の女性ですが、わたしのほうは(「オドル」の一稿が上がったときはまだ本を書く前だったとはいえ)、藤倉みのりの役を、実はおばあさんとしようと考えていたので、かなりびっくりしました。
これは二作品共に、そのことが「落ち」にならなければいいと思い、また二本続けて観ていくうちになにか感じることが出てくればいいな、と考えました。
それと別に、ある意味、もっと大きなことかと思うことがありました。
大きいといっても先に書いたように、この公演の主旨やテーマというのとは別物です。
藤岡豊作の「オドル」は、明日香の演じた「先生ノ代理」という奇妙な立場、存在のあり方が作品の中心となっています。
が、宮下隼一作の「Fool~」も実は「代理」の話であるとわたしは思いました。
「私の言葉じゃないんだから」と言う「上からの女」は、神の代理であり、
「屋上の男」もまた神の代理に遣われている。
おもしろいのは「下からの男」も、「行政代執行(ちょっとインチキな)」という、仕事が「代理」です。
「代行業務」で言えば、わたしの作品の清掃員というのも、誰かの代わりに掃除をする、
ひとつの代行業務じゃないでしょうか。
その清掃員の「スナオ」は、藤倉みのりの演じる「照子」というおばあさんに、亡くなってしまった
彼女の夫の代わりに、「代理のプロポーズ」を誓います。
高木登作「悪意の研究」だけは違うじゃない、と思うかも知れないけど、こういうことを考えているとこの話もわたしには、共通して読める部分があるのです。
そもそもこの話のなかで、刑事は殺人犯そのひととは会話をしない。
犯人との殺意を探る会話よりも、作家が選んだのは、どこかに(そしてそれは我々のごく近くに)
潜む「悪意なるもの」を描こうとすること。
代理ではないが、これもまた直接の関係でなく、ひとつなにかを挟んだ関係性である。
「下からの男」が「屋上の男」と出会っていても、それはあくまで「代理」としてであり、
個人の人間性と相対しようとはしないことと、刑事が二人の女たちに言う台詞は似ている。
また、二人の女たちは、世の中の常識や偽善と、そうでないなにか、の「代理」として、
あの高校生の女の子に出会ったとも言えるのではないだろうか。
これはどうしたことでしょうか。
いろいろと考えるとおもしろいな、とわたしは思いました。
わたしを含め、これらについては作家たちに意識的なものではなく、感覚的なものだったようです。
となるとたまたまこの四人が漠然と同じことを書いたのではなく、もしかすると、
いまの時代が生み出したものであり、ほかにも「代理」を描いた作品が多数あるのかも知れない、
と考えてしまった。
なぜ、自分が自分ではないのか。
四つの作品の「代理」たちはみな、「自分ではないなにか」の立場を自ら引き受けたり、
また甘んじているようでもありながら、みな、もがいている。
自分から自分を捨て、代理という運命を背負い、さらにその運命に逆らおうとする。
自分をみつけたいのではもはや、ないのだろう。
四作品を作りながら、わたしが知ったのは、
成り代わることは、たぶん、伝えようとすること、だった。
「代理」たちがなにを伝えようとし、どうして伝えようとするのか。
この作品を離れてもきっとまた、わたしは考えることになりそうです。