写真は「彼らは雨を連れてやってくる」(作/森海月)から。森海月ってわたしです。
(以下、本日も敬称略にて)
本には書いてあるが、作品を観ても台詞には出てこないのが、この清掃員たちの会社名で「ウルトラマリン」という名前である。(実はつなぎの背中にアルファベットで書いてあるけど、話には関係ないので気づかずとも良いのです)
4編のラストにあたる、藤倉みのり、中村優芽の出演を含めた部分を別にして、1本目と2本目の間、2本目と3本目の間のシーンを稽古場では、よく「ウルトラマリン」と呼んでいた。
その「ウルトラマリン」の4人が、彼らである......。
これがわたしにとって、いまだかつてない、なんといっていいか......。
ほんとうになんといっていいかわからないメンバーだった。
彼らは稽古に集まると、
・労働または学校または理由がわからないが、全員くたびれている。
・しかしいつでも、誰もが即効でつなぎに着替える。
・着替えるときは必ず稽古場の真ん中で。パンツを見せ合う。
・疲れている癖に、稽古前に全力でバレーボールなどやる。
・さて稽古してみると、なにかふにゃふにゃしている。
・なんだろう。これは。
・本か、本なのか!?
・しかしなにか、目に見えない絆を感じる。これは、なんだろう。
・芝居以外の会話を聞いてみたら、世代ギャップのせいで会話になってない。
・と思ったら、下ネタでつながっていた!
といういろんな意味でわたしをウルトラ超えていた「ウルトラマリン」だった。
ひとりずつは上手い役者であり、またたいへん芝居熱心なのだが4人揃うと、なぜああいう空気(オーラ?)になるのか、自分たちでもわからないのじゃないか。
いつか「ウルトラマリン」で一本の長編をやるから、つなぎを大事にとっておくように。
それはそれはすごいだろうよなあ。
ラストの作品はつながりの部分のラストシーンでありながら、ひとつ独立した作品にもなっており、
堀広希はこれに悩みながら挑戦してくれた。
広希とはさまざまに話をした。わたしは苦労したとはまったく思っていない。
振りかえって、充実した、気持ちのいいセッションだったと思う。
藤倉みのりとの二人のシーンは、稽古を見ながら涙を落とした。
今回の稽古場でがまったく、椅子に座ってじっとしている暇がなかったが、それとまた別に、
平気で涙を零したなあ。
藤岡豊のテツ、そして伊藤浩樹のシュンがいなければ、この作品はそもそもなかった。
平山寛人は彼らのアニキでいてくれた。芝居は終わったが、彼ら3人にとって、キンキンさんは
ずっとどっかしら心のアニキだろう。
短編の間に転換と同時に芝居を挟んでいくという案は、企画段階で決めて、作家らには意図を説明してあった。
この構成がかえって観客を混乱させてしまわないかとも思ったが、こうすることにして、いろいろ配慮・工夫はしてみた。
結果、これがあったから見やすかった、ばらばらの話が不思議となにかつながって見えた、という方たちもいるし、やはりこれがあるからわかりにくかったという方もいて、ひとつのやり方を選択した以上これはもう、仕方がない。
間に挟む部分については、ふつうならもう少し尺を短くするところだと思うのだけど、これもわたしはあまり、どこか見慣れた形にするのを避けた。
いろいろ計算はしたし、全体が繋がるとどうなるか、何度も頭には描いてはいたものの、
実際繋げて観るまでわたしにもわからず、通し稽古までは不安と共にたのしみでもあった。
「意味」や「言葉」より、空気のようなもので繋がっていくことを試みているとも言え、
それを劇という毎日が少しずつ、変化していくものでやるのだから、
本番は「ウルトラマリン」の微妙な按配で、繋がった感じがとてもするときと、どうもなにかが......という回があったように、わたしには思えた。
役者たちは毎回ちゃんとやっていても、それはそうなる。内容の問題なのだ。
このようなことはわたしはこれまで、長編であっても同じことをやってきたところがある、だのにいまだに「定着」させる方法というのが、わからない。
ただわたしが感じることや狙いとはまた別に、舞台の役者たち自身や、客席のひとりひとりが、
それぞれ感じとっていくなにかが、確かにあるのだと思う。
初日のお客さんである、マイケルさんが、我らのウルトラマリンを、天使のようだった、
「背中に、羽が見えた」と言ってくれた。ありがとう。
たぶん、ほんとうに、彼らの背中には羽がある。
ああ、だから飛んでっちゃうんだ!