公演準備期間中で毎度のことながら非常に煩雑な日々だ。
自分のやることが多いのはいいが、ひとにお願いごともたくさんして、
いったい誰になにを頼んでいるのか、わからなくなりそうになるくらいだ。
能力のあるひとたちは忙しい。その忙しいひとたちを捕まえて、スミマセンスミマセン、
と、無料で、またはほんのわずかなお礼でお願いごとをする。
「私は泥棒なのだ」と思わずにはいられない。
その泥棒の言うことを、おもしろがって引き受けてくれるひとたちがいる。
ありがたくて、うれしい、けれど、身が縮む。
当然のことではある、しかし、気をつけなければならない。
経験からこういうときに起きることがわかるようになった。
注意してさえいれば、住み慣れた駅のホームへの階段がうまく降りられないことに、
ちゃんと気がつく。歩幅が違っているのだ。
その次には洗面所の蛇口が近く感じるようになり、その次にはキッチンの棚に手が届かなくなり、
食事をとるにもテーブルに手が届かなくなり、床をはいはいするまでに、縮んでしまう。
そうなる前に、自分で意識することが大事だ。
案の状、きのう、美術さんと打ち合わせの後の帰りに、駅の階段でよろめいた。
きたな、と思った瞬間、背後から「きゃ」と小さく悲鳴があがって、
「大丈夫ですか」駆け寄って手を差し伸べてくれた女性がいた。
見ると、色白のくっきりした目のきれいなお嬢さんだ。
悪い癖できれいな女性を見ると心中、だらしなくなり、その滑らかな手に必要以上に
しがみついた。
ぷん、とくちなしの花の香りがする。
「スミマセン、ありがとう」謝りながらも口はどんどん勝手に、
「スミマセン、安い印刷会社をご存知ですか、スミマセン、それか安い弁当屋は。
スミマセン、10月にお暇はないですか、突然スミマセンがもしよかったら、お芝居を
観に来ませんか、それかスミマセンがよかったら受付のお手伝いを」
最後のほうは花の香りのお嬢さんの、靴しか見えなくなった。